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TOP塾 NEWSLETTER不可能へのチャレンジ 〜本田宗一郎〜

2011年10月28日 金曜日 不可能へのチャレンジ 〜本田宗一郎〜     ( 塾 NEWSLETTER )

不可能へのチャレンジ
 〜本田宗一郎〜


「チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ。」
本田宗一郎の言葉ですが、まさに宗一郎の人生はチャレンジの人生でした。
それもとてつもない不可能へのチャレンジです。
小学校卒業後、自動車修理工場に入社(丁稚奉公)。
優秀だった宗一郎は6年後、のれんわけを許されます。
30歳のとき念浜松工業高等学校(現静岡大学工学部)機械科に聴講生として入学。
専門知識の大切さを痛感した宗一郎は本格的に勉強をはじめます。
その後、「東海精機重工業株式会社」の社長に就任し自動車部品製造に乗り出します。
宗一郎が現在のホンダのはじまりである本田技研工業(株)を設立したのは42歳のとき、資本金は100万円でした。
11人の社員でスタートしたホンダのはじめのチャレンジは世界一のパワーのバイクエンジンを作ってレースに勝つこと。
しかし、その道のりは険しいものでした。
多額の借金と社員の事故死、立ちはだかるヤマハの壁・・・・・・・
数多くの困難を乗り越え、苦心の研究の結果、世界初のエンジンの開発に成功。
国内のレースで結果を出せるようになってきたホンダは、積極的に世界に打って出ます。
そして、「マン島を征するものは世界のバイク市場を征す」とまで言われていた世界最高峰のバイクレース、マン島の二輪車世界グランプリで、いきなり1位から5位までを独占したのです。
しかも、スタートからエンジンの違いを見せつけての圧勝でした。
レース後進国日本の小さな会社は一瞬で世界に名を轟かせ、この活躍でホンダのバイクはアジア諸国を中心に大ヒット。
バイク=ホンダと呼ばれるまでに不動の地位を築きました。

栄光への軌跡

1959年、ホンダのオートバイは〈マン島TTレース〉に初出場しました。
当時のホンダが欲したのは、緻密な設計が施されたレース用オートバイに向く、信頼性の高い潤滑油でした。
そして、カストロールに白羽の矢が立ったのです。
すでに名実ともにナンバーワンの地位を確立していたカストロールにとって、ホンダから届いたサポートの打診は驚くべきことではありませんでした。
安心と信頼の積み重ねがカストロールの歴史だったからです。
2年後の1961年4月23日、スペインのモンジュイックパーク・サーキット。
「カストロール R30」を潤滑油に採用したホンダ製125ccオートバイにトム・フィリスが乗り、見事に初優勝を遂げました。
その後、カストロールとホンダが50年を超える年月にわたって手を組み、500回もの世界選手権を制覇することになるとは、トム・フィリス自身も想像していなかったことでしょう。
この1961年のシーズン、トム・フィリスは他の125ccクラスでも3勝を挙げ、年間4勝の記録を残しています。
翌年のカストロールとホンダは、いくつものレースタイトルを獲得しています。
125ccクラスではルイジ・タヴェリが、250ccクラスと350ccクラスではジム・レッドマンが勝利を挙げています。
トータルで25勝を挙げたこの1962年は、ホンダのモータースポーツ史において最も成功した年として記憶されています。

350ccクラスで年間タイトルを獲得しました。
タヴェリは出場した50ccクラスと125ccクラスで思うような結果を出せませんでしたが、翌1964年には125ccクラスで年間タイトルを獲得しています。
またレッドマンは、この1964年に続き1965年にも350ccクラスを制し、4年連続で年間タイトルを獲得することになりました。
これは、ミック・ドゥーハン、バレンティーノ・ロッシと並ぶ歴史的な偉業です。
その後、レッドマンは1966年を自身のラストシーズンと決め、500ccクラスに専念しました。
そして、レッドマンの跡を継いだマイク・ヘイルウッドはホンダ250とホンダ350に乗り、1966年と1967年に優勝。
また、カストロール“R”を使用したタヴェリは、得しました。
1967年、ホンダはモーターサイクルのレースシーンから一時的に撤退しました。
カストロールとホンダが組んだ10年間は、131回に及ぶ勝利と15回もの年間タイトル獲得を果たすこととなりました。
その間、高い評価と影響力を持つパートナーシップがモータースポーツ界に示されました。

エピソード

エピソード1.

本田技研の創業者、本田宗一郎が天皇陛下から勲章を賜ることになった。
が、「技術者の正装は白いツナギ」と、工場に居るのと同じ服装で参内すると言い出した。
「オヤジさん、やはりモーニングでないと」
「じゃあ行かねぇ」
最終的には周囲の懸命の説得に折れ、周囲と同じ正装に身を包んだ。

1980年代半ば、F1でターボエンジンに対する規制が始まった。
ルノーやBMW、ポルシェが勝っている間には何も言われてはいなかったのに、ホンダが勝ち始めた途端に規制が取り沙汰されるようになり、言わばなし崩し的にターボエンジンの段階的廃止(燃料・過給圧の制限を経て、1989年から自然吸気エンジンに移行)が決められていった。
こうした動きに憤慨した現場の責任者は、ホンダは抗議の撤退をすべきではないかと思いつめ、宗一郎に面談を申し入れた。
いわば直談判であった。
が、オヤジさんは応接室に入るなり、
「F1でターボが禁止されるらしいが、これはホンダだけが禁止なのか?ん? 違うのか。
バカなやつらだ。ホンダにだけ規制するというのなら賢いけど、同じルールで一からやり直しだって言うんなら、ホンダが一番速くて最高のエンジンをつくるに決まってるのにな。で、何だ、話ってーのは?」
「あ、いや、すいません。何でもないです」
責任者たちはすっかり嬉しくなってしまったという。
その後ホンダは、宗一郎が鬼籍に入る1991年まで毎年チャンピオンを獲り続けた。

副社長として本田技研を経営面から支えた藤沢武夫は風流人として知られ、着物姿で出社することも珍しくなかった。
ある日、やはり着物で社内をうろついていたところ、掃除のおばさんに
「関係者以外は立入禁止だよ」
とたしなめられた。
藤沢は笑顔で、
「これでもここの社員なんですよ」
と答え、おばさんがこの顛末を上司に報告すると、
「バカ、それは副社長だ」
ということになり翌日慌てて謝りに行くと、「いやいや、こんな格好でふらふらしてる私の方が悪いんですよ」
と答えたという。
そして、そのやりとりを見ていた作業服を着た老人がゲラゲラ笑いながら
「俺もネクタイしめた方がいいかな」
などと藤沢に語りかけていたので、誰だろうと思っていたら、そのじいさんが本田宗一郎であったと、おばさんは後で知ったという。

img1←クリック!

エピソード2.

友達の親父さん鈴鹿サーキットで警備員やっていて、ある日黒塗りのハイヤーがゲートに来た。
警備員の親父さん「通行証お願いします」
黒塗りの運転手 「関係者だ」
警備員の親父さん「ですから通行証を」
黒塗りの運転手 「だから関係者だといってるだろう」
警備員の親父さん「関係者でも何でも通行証を提示して頂かないとお通しできないことになっているんですよ」
黒塗りの運転手 「・・・(不満そうに)」
すると黒塗りのハイヤーの高部座席から声が、
「通行証を忘れてきたのは我々のミスです、今日は引き返しましょう」
こうしてハイヤーは帰っていった。
数日後警備会社にあの本田宗一郎から手紙が!
「貴方のようなちゃんとした方が警備してくださってることを心強く思います」
的なことを書いていたそうで、警備会社は騒然。
親父さんが追い返したのはあの本田宗一郎の車だったわけで警備会社も大慌て。
親父さんは本田宗一郎を追い返した伝説の男となった。
ただ本田宗一郎の手紙は大変好意的だったので無論処分無し。
その後も親父さんはその警備会社に勤められることになった。
そしてまたその後鈴鹿サーキットにあの車がやってきた。
警備員の親父さん「通行証お願いします」
黒塗りの運転手 「はい(通行証差し出す)」
警備員の親父さん「はいどうぞお通りください」
そして黒塗りの車は通過して行った。
親父さんの前を通過していくその時、後部座席の窓が開き窓から本田宗一郎が親父さんに会釈したとさ。
権力者って権力を濫用しないものなんだね。

img2←クリック!

エピソード3.

本田宗一郎のチャレンジ・スピリットは筋金入りでした。
66歳で飛行機の操縦士免許に挑戦し、76歳で1100ccのオートバイにまたがって、
「危なくなんかあるもんか、乗り出せば両手を挙げて、こりゃこりゃだ」
と、言い放った。
さらに、78歳でスイスの標高差700メートルの絶壁をハングライダーで飛んでいる。
ちなみに本田宗一郎は、生涯で3回飛行機事故に遭っているが、飛行好きはかわらなかった・・。

img3←クリック!

エピソード4.

本田宗一郎が、マン島レースに出場するために、欧州に視察旅行に出たときのこと。
ある工場の床に落ちていたプラス・ネジをこっそり拾ってきた。
じつは、それまで日本にはマイナスネジしか存在しなかった。
マイナスではドライバーを使って手作業で締めるしかないが、プラス・ネジなら機械で締めることができる。
これでホンダの生産性が飛躍的に上がっただけでなく、全国に広がって日本の製造全体に恩恵をもたらした。
しかも、このとき、帰りの飛行機で、あまりにも多くの部品を持ち帰ろうとして重量が10キロオーバーし、追加料金をとられることに。
しかし、目一杯部品を買い込んだために、お金がない。
係官と交渉するが、頑として受け付けてくれない。
そこでトランクから、衣服をすべて取り出して、片っ端から強引に着込んでいき、見事荷物を10キロ分減らしてしまう。
重量検査をパスした瞬間、そのやりとりを見ていた周囲の観光客たちから、拍手喝采がおきたという。
プラスネジは、こうして日本にやってきたのです。

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エピソード5.

★本田宗一郎は、まだ会社を立ち上げたばかりで社員が2名だった頃、自分の小さい工場にある"みかん箱"の上に立って、「この会社は世界のホンダになる!」と宣言した。

★戦時中、空襲があると本田宗一郎は大喜びした。なぜなら、アメリカが落とした爆弾の中から不発弾を探し、その鉄を使って、バイクを作ることができたから。

★本田宗一郎がHONDAの工場を歩いていると、本田宗一郎を知らない若い工員から「おいおっさん! ズボンのポケットに手を入れて歩くな! 転んだら危ねーだろ!」と注意された。この工員を班長は怒鳴ったが、本田宗一郎は「こんな仕事熱心なやつを怒鳴るほうがバカだ!」と怒った。そして、その後ホンダのズボンから、ポケットが全て取り外された。

★本田宗一郎がまだ若いころ、取引先の外国人スタッフと食事をしていた。その外国人スタッフがトイレ(ボットン便所)に行った際、トイレの中にメガネを落としてしまった。外国人スタッフや店の店員さんがどうしようかと相談していると、本田宗一郎が来て「どうした?」と聞いた。事情を知った本田宗一郎は、「なんだ、そんなことか」と言って、その場で服を脱ぎフンドシ一枚になった。そして、ボットン便所に入りメガネを拾った。

 

 

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