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TOP公開:伝記文の問題と解答偉人:茶の湯の達人 千利休

 

 

偉人:茶の湯の達人 千利休

◆千利休(せんのりきゅう)を知しる◆

茶の湯(ちゃのゆ)の世界は、千利休が作りあげ 日本の伝統的(でんとうてき)な芸術(げいじゅつ)のひとつ茶道(さどう)として現在(げんざい)でも多くの人に愛されています。
1522年、利休は堺(さかい)の町で千与兵衛(せんのよへえ)の子、与四郎(よしろう)として生うまれました。
武将(ぶしょう)たちが争っている時代なのに、この堺は、堀(ほり)で囲まれており もっとも安全な土地とされていました。
また、武将たちに鉄砲(てっぽう)を売る仕事をしていたので町も豊かでした。

与四郎は少年の頃から茶道にすぐれており、16歳には千宗易(せんのそうえき)として茶会を開ひらき、まわりの人をおどろかせました。

19歳のとき、父が亡なくなり魚屋千家(ととやせんけ)のあとをついだ宗易は、さびしさから茶の湯の世界で有名な武野(たけの)じょうおうの弟子(でし)となり本格的に茶道を学びはじめます。
ある時とき、じょうおうと宗易が堺の町を歩いていると素敵な花入れが売っていました。
そのまま通り過ぎたふたりですが、帰ってからも ふたりは花入れのことが気になって気になってしかたがありません。
次の日、じょうおうはその花入れを買いにでかけますが、花入れはすでに売れていて店にはありません。
「きっと、宗易が買ったにちがいない。」
「しかし、あの花入れは形が整のいすぎている。耳をひとつ取ったほうがよかろう。」
そう思ったじょうおうは、金づちを持って宗易の家に向かいます。
しかし、もうすでに花入れの耳はひとつ取ってありました。
「おや、おや、お師匠(ししょう)様、金づちなど持たれてどうなされました。」
「いやいや、そこの近くの家でな。
門を直してほしいとたのまれたもんで。
近くだから寄ってみたものよ。わあっはぁはぁ。」
とじょうおうは、
『さすがは宗易』
と感心(かんしん)しながら笑って帰っていきました。
「この茶碗(ちゃわん)は色も形も良いの〜。」
と宗易がひとことほめただけで、その茶碗の値段(ねだん)が何十倍にも高くなるのです。

茶道は、作法のひとつとして、武将のあいだでも広くおこなわれていました。
やがて宗易は、織田信長(おだのぶなが)と親しかった今井宗久(いまいそうきゅう)のすすめで信長に茶道を教えたり、お茶の道具がよい物か悪い物かを見て鑑定(かんてい)するようにもなりました。

1575年には、信長の茶頭として茶会までまかされるようになります。
天下(てんか)をとった信長の茶頭となることは名誉(めいよ)なことであり茶人としての名声(めいせい)もあがります。
ほかの武将たちも続くようにして宗易の弟子になっていきました。
秀吉(ひでよし)【のちの豊臣秀吉(とよとみひでよし)】もそのひとりです。

1582年、信長は、家来(けらい)のひとり明智光秀(あけちみつひで)にうらぎられ本能寺(ほんのうじ)の変(へん)で自害(じがい)してしまいます。
秀吉は、すぐに信長のかたきをとり明智光秀をたおし、そのまま天下までとってしまいます。

宗易もまた秀吉の茶頭となっていくのです。
このころ、朝廷(ちょうてい)から「利休居士(りきゅうこじ)」というえらい名前もあたえられます。
秀吉は、利休に世のなかのことや争いのことなども相談(そうだん)するようになっていきます。
利休は、いろいろなことを知っていて頭もよく知恵が働いたので、秀吉の強い味方になっていきました。
また、ほかのえらい大名(だいみょう)たちもなにかと利休をたよるようになります。
農民(のうみん)から武将になった秀吉は、きらびやかなものが好きでした。
そんな秀吉を利休はあまり良く思っていませんでした。
茶会とは、人を大切に思う心でお客さまにお茶をいれ、おもてなしするものです。
きらびやかな茶道具(さどうぐ)を見せびらかすものでも自慢(じまん)するものでもないのです。
あるとき、
「利休よ。わしは、黄金(おうごん)の茶室(ちゃしつ)をつくりたい。
そなたは、すぐれたうでを持っておる、つくってくれぬかのう。」
「黄金の茶室にございますか。」
「そうよ。みながあっとおどろくような黄金の茶室よ。」
秀吉は いちど決めたらあとにひきません。
「さてさて、いかがすれば殿(との)のごきげんをそんぜずにすむかのう。」
利休は頭をなやませながらも、秀吉のばかげた考えにしたがわなければならない自分の心をはじながらも、持ち運びのできる黄金の茶室をつくるのです。
「持ち運べる茶室、これはおもしろい。
秀吉のこと、きっと自慢(じまん)しながら国中を持ち歩きまわるにちがいない。」
利休の思ったとおり、秀吉は持ち運べる茶室を見て喜びの声をあげました。

秀吉の茶頭として、そして相談相手としても秀吉に頼りにされる利休は、
「ご茶頭さまがそのようにもうされるなら。」
と大名たちからも したわれるようになります。
しかし、秀吉のまわりにいる人のなかには、そんな利休をよく思わない人もいます。
自分達たちがよくなるようにと利休の悪いうわさを流し、利休をおとしいれようとするのです。

利休には、妻のお稲(いね)とのあいだに一人の男の子と四人の女の子がいました。
そんなとき、利休は娘おぎんを秀吉にさしださなければいけなくなりました。
そして、秀吉のところへ行ったおぎんは何日もたたないうちに、死んでしまいます。
利休は、ただただ いかりと悲しみにくれるのです。

月日がたち
「利休、そなたの家の朝顔がみごとであると評判である。
明日、そなたの家に見にまいるぞ。
お茶をいっぷくたててくれ。」
秀吉は、なにもなかったかのように利休の家をおとずれます。
「はて、朝顔の花はどこに。」
利休の家の庭には、朝顔の花はひとつもありません。
しかし、茶室に入ると、そこには、大輪(たいりん)の花が一輪(いちりん)いけてありました。
「殿、いかがでございましょう。」
「みごとな大輪じゃ。」
「一輪の大輪のため、ほかの花はすべてつみ取りましてござります。」
「良いものを見せてもらった。」
勘(かん)の悪い秀吉ではありません。
秀吉はお茶も飲まずに帰っていきました。

それからも、利休の立場が悪くなるようなことを秀吉にふきこむ者がいて、利休は、次から次へと追いつめられていきます。
秀吉は、利休があやまってくれば ゆるすつもりでしたが、利休は、一言ひとことの弁明(べんめい)もしませんでした。

そして、2月25日、ついに利休に切腹が言いわたされます。
1591年2月28日、千利休は、最後の茶会をひらき、茶室で切腹(せっぷく)。
70歳で茶人としての生涯(しょうがい)をとじました。

この日、天候はあれて、大雷雨(だいらいう)におそわれました。
利休を愛する多くの人々は、
「天の怒(いか)りである。」
となげき悲しんだそうです。
秀吉の心も、また暗くあったことでしょう。

<千利休を知る>
*課題かだい「抹茶をたててみよう。」

問題一
利休はどんな少年でしたか。

問題二
堺(さかい)の町はどんな町でしたか。

問題三
武士たちにとって茶道はどのようなものでしたか。

問題四
千利休は、豊臣秀吉をどのように思っていましたか。

問題五
千利休を読よんだ感想を書かきましょう。

▼調しらべてみましょう。
茶道(さどう)
作法(さほう)

▼考かんがえてみましょう。
「朝顔を見にきた秀吉がお茶も飲まずに帰っていった。」・・・?
どうしてか考えてみましょう。
●秀吉吉が思ったことはなんでしょう。

●利休はなにがいいたかったのでしょう。

▼考えてみましょう。
どんな作法(さほう)を知っていますか。
また、作法をおもんじるのはなぜでしょう。

*利休になったつもりで お抹茶をたてて みましょう。
*ノートにやりましょう。

対 象

実施日

ルビあり解答例

千利休 ルビあり文章 解答例

千利休(せんのりきゅう)を知る
◼解答例:参考にして下さい。

問題一
利休(りきゅう)はどんな少年でしたか。
◼茶道(さどう)にすぐれていて、16歳(さい)で最初(さいしょ)の茶会(ちゃかい)を開(ひら)きまわりの人をおどろかせた少年。

問題二
堺(さかい)の町はどんな町でしたか。
◼堀(ほり)で囲(かこ)まれ もっとも安全(あんぜん)な土地(とち)で、武士(ぶし)たちに鉄砲(てっぽう)を売(う)る仕事(しごと)もしていたので豊(ゆた)かな町だった。

問題三
武士(ぶし)たちにとって茶道(さどう)はどのようなものでしたか。
◼武士(ぶし)としての、作法(さほう)のひとつだった。

問題四
千利休(せんのりきゅう)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)をどのように思っていましたか。
◼茶頭(さどう)とは、きらびやかな茶道具(さどうぐ)を見せびらかすものでも自慢(じまん)するものでもないので、きらびやかな物(もの)が好(す)きな秀吉をあまりよく思っていなかった。

問題五
千利休(せんのりきゅう)を読んだ感想(かんそう)を書きましょう。

◆ 考えてみましょう。
秀吉が思ったことはなんだろう。
◼利休(りきゅう)がおぎんのことをいっているのだとかんじた。など

利休はなにがいいたかったのかな。
◼おぎんを朝顔(あさがお)の花にたとえて、自分の勝手(かって)な思いで人を死(し)に追いこむ秀吉のやりかたを とおまわしに非難(ひなん)した。
など

ルビなし文章

千利休 ルビなしの文章

◆千利休を知る◆

茶の湯の世界は、千利休が作りあげ 日本の伝統的な芸術のひとつ茶道として現在でも多くの人に愛されています。

1522年、利休は堺(さかい)の町で千与兵衛(せんのよへえ)の子、与四郎(よしろう)として生まれました。
武将たちが争っている時代なのに、この堺は、堀で囲まれており もっとも安全な土地とされていました。
また、武将たちに鉄砲を売る仕事をしていたので町も豊かでした。

与四郎は少年の頃から茶道にすぐれており、16歳には千宗易(せんのそうえき)として茶会を開き、まわりの人をおどろかせました。
19歳のとき、父が亡くなり魚屋千家(ととやせんけ)のあとをついだ宗易は、さびしさから茶の湯の世界で有名な武野(たけの)じょうおうの弟子となり本格的に茶道を学びはじめます。

ある時、じょうおうと宗易が堺の町を歩いていると素敵な花入れが売っていました。
そのまま通り過ぎたふたりですが、帰ってからも ふたりは花入れのことが気になって気になってしかたがありません。
次の日、じょうおうはその花入れを買いにでかけますが、
花入れはすでに売れていて店にはありません。
「きっと、宗易が買ったにちがいない。」
「しかし、あの花入れは形が整のいすぎている。
耳をひとつ取ったほうがよかろう。」
そう思ったじょうおうは、金づちを持って宗易の家に向かいます。
しかし、もうすでに花入れの耳はひとつ取ってありました。
「おや、おや、お師匠(ししょう)様、金づちなど持たれてどうなされました。」
「いやいや、そこの近くの家でな。門を直してほしいとたのまれたもんで。
近くだから寄ってみたものよ。わあっはぁはぁ。」
とじょうおうは、
『さすがは宗易』
と感心しながら笑って帰っていきました。

「この茶碗は色も形も良いの〜。」
と宗易がひとことほめただけで、その茶碗の値段が何十倍にも高くなるのです。
茶道は、作法のひとつとして、武将のあいだでも広くおこなわれていました。

やがて宗易は、織田信長(おだのぶなが)と親しかった今井宗久(いまいそうきゅう)のすすめで信長に茶道を教えたり、お茶の道具が良い物か悪い物かを見て鑑定するようにもなりました。
1575年には、信長の茶頭として茶会までまかされるようになります。
天下をとった信長の茶頭となることは名誉なことであり茶人としての名声もあがります。
ほかの武将たちも続くようにして宗易の弟子になっていきました。
秀吉【後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)】もそのひとりです。

1582年、信長は、家来のひとり明智光秀(あけちみつひで)にうらぎられ本能寺の変で自害してしまいます。
秀吉は、すぐに信長のかたきをとり明智光秀を倒し、そのまま天下までとってしまいます。

宗易もまた秀吉の茶頭となっていくのです。
このころ、朝廷から「利休居士(りきゅうこじ)」というえらい名前もあたえられます。
秀吉は、利休に世の中のことや争いのことなども相談するようになっていきます。
利休は、色々なことを知っていて頭もよく知恵が働いたので、秀吉の強い味方になっていきました。
また、ほかのえらい大名達もなにかと利休を頼るようになります。
農民から武将になった秀吉は、きらびやかなものが好きでした。
そんな秀吉を利休はあまり良く思っていませんでした。
茶会とは、人を大切に思う心でお客さまにお茶をいれ、おもてなしするものです。
きらびやかな茶道具を見せびらかすものでも自慢するものでもないのです。
あるとき、
「利休よ。わしは、黄金の茶室を作りたい。
そなたは、すぐれた腕を持っておる、作ってくれぬかのう。」
「黄金の茶室にございますか。」
「そうよ。皆があっと驚くような黄金の茶室よ。」
秀吉は 一度決めたらあとにひきません。
「さてさて、いかがすれば殿のご機嫌をそんぜずにすむかのう。」
利休は頭を悩ませながらも、秀吉のばかげた考えに従わなければならない自分の心を恥じながらも、持ち運びのできる黄金の茶室を作るのです。
「持ち運べる茶室、これはおもしろい。
秀吉のこと、きっと自慢しながら国中を持ち歩きまわるにちがいない。」
利休の思ったとおり、秀吉は持ち運べる茶室を見て喜びの声をあげました。
秀吉の茶頭として、そして相談相手としても秀吉に頼りにされる利休は、
「ご茶頭さまがそのように申されるなら。」
と大名達からも 慕われるようになります。
しかし、秀吉のまわりにいる人の中には、そんな利休をよく思わない人もいます。
自分達がよくなるようにと利休の悪いうわさを流し、利休をおとしいれようとするのです。

利休には、妻のお稲(いね)との間に一人の男の子と四人の女の子がいました。
そんなとき、利休は娘おぎんを秀吉に差し出さなければいけなくなりました。
そして、秀吉のところへ行ったおぎんは何日もたたないうちに、死んでしまいます。
利休は、ただただ怒りと悲しみにくれるのです。

月日がたち
「利休、そなたの家の朝顔が見事であると評判である。
明日、そなたの家に見にまいるぞ。
お茶を一服たててくれ。」
秀吉は、何もなかったかのように利休の家をおとずれます。
「はて、朝顔の花はどこに。」
利休の家の庭には、朝顔の花はひとつもありません。
しかし、茶室に入ると、そこには、大輪の花が一輪生けてありました。
「殿、いかがでございましょう。」
「みごとな大輪じゃ。」
「一輪の大輪のため、ほかの花はすべてつみ取りましてござります。」
「良いものを見せてもらった。」
勘の悪い秀吉ではありません。
秀吉はお茶も飲まずに帰っていきました。
それからも、利休の立場が悪くなるようなことを秀吉にふきこむ者がいて、利休は、次から次へと追いつめられていきます。
秀吉は、利休が謝ってくれば 許すつもりでしたが、利休は、一言の弁明もしませんでした。

そして、2月25日、ついに利休に切腹が言いわたされます。
1591年2月28日、千利休は、最後の茶会を開き、茶室で切腹。
70歳で茶人としての生涯を閉じました。

この日、天候はあれて、大雷雨におそわれました。
利休を愛する多くの人々は、
「天の怒りである。」
となげき悲しんだそうです。
秀吉の心も、また暗くあったことでしょう。

<千利休を知る>
*課題かだい「抹茶をたててみよう。」

問題一
利休はどんな少年でしたか。

問題二
堺の町はどんな町でしたか。

問題三
武士達にとって茶道はどのようなものでしたか。

問題四
千利休は、豊臣秀吉をどのように思っていましたか。

問題五
千利休を読んだ感想を書きましょう。

▼調しらべてみましょう。
茶道
作法

▼考かんがえてみましょう。
「朝顔を見にきた秀吉がお茶も飲まずに帰っていった。」・・・
どうしてか考えてみましょう。
●秀吉が思ったことはなんでしょう。

●利休はなにがいいたかったのでしょう。

▼考えてみましょう。
どんな作法を知っていますか。
また、作法を重んじるのはなぜでしょう。

*利休になったつもりで お抹茶をたてて みましょう。
*ノートにやりましょう。

千利休 ルビなし文章 解答例

千利休を知る
◼解答例:参考にして下さい。

問題一
利休はどんな少年でしたか。
◼茶道にすぐれていて、十六歳で最初の茶会を開きまわりの人をおどろかせた少年。

問題二
堺の町はどんな町でしたか。
◼堀で囲まれ最も安全な土地で、武士たちに鉄砲を売る仕事もしていたので豊かな町だった。

問題三
武士たちにとって茶道はどのようなものでしたか。
◼武士としての、作法のひとつだった。

問題四
千利休は、豊臣秀吉をどのように思っていましたか。
◼茶頭とは、きらびやかな茶道具を見せびらかすものでも自慢するものでもないので、きらびやかな物が好きな秀吉をあまり良く思っていなかった。

問題五
千利休を読んだ感想を書きましょう。

◆ 考えてみましょう。

秀吉が思ったことはなんだろう。
◼利休がおぎんのことを言っているのだと感じた。
など

利休はなにが言いたかったのかな。
◼おぎんを朝顔の花にたとえて、自分の勝手な思いで人を死に追いこむ秀吉のやり方を遠まわしに非難した。
など

 

 

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