TOP講師の日記社会的適応の問題をどうとらえるか

2010年05月18日 火曜日 社会的適応の問題をどうとらえるか     ( 講師の日記 )

先回に引き続き、「発達障害」ということばの定義に関連したお話をさせていただきます。
先回も引用しました杉山先生の『発達障害の子どもたち』では、
「発達障害」は、次のように定義されています。

「発達障害とは、子どもの発達の途上において、なんらかの理由により、発達の特定の領域に、
社会的な適応上の問題を引き起こす可能性がある凹凸を生じたもの」(P45)

先生のこの定義は、ご本全体を読み通すと、ひとつひとつの用語法に細心の注意が
払われていることがわかるのですが、
そのいちばんのポイントは「社会的適応」ではないでしょうか。

むろん私たちは、多かれ少なかれ「社会的適応」において「個人差」を有しています。
それは言い換えれば、社会生活を送る上での得手・不得手のようなものだと思いますが、
特に不得手の許容範囲というのは、ボーダーラインをいちいち定義として書き出したら
キリがないような気もしますし、「法律に違反しない程度」とか「当人の心理的忍耐の限界まで」とか、
ラフな定義でもよいような気もします。

杉山先生も述べられていることですが、
問題は、子どもたち「本人の責任ではないことによって、つまり本人が怠けたり、
わざと反抗したりしているのではなく、また親の躾の不備によるものでもなくて」(P46)
社会生活に支障がおきていることなのだと思います。

 たとえば多動の子どもたちによって学校の授業が成立しにくい状況があるとします。
先生もがんばっていろいろ工夫されているようだが、なかなか状況は改善されない。
この状況に登場する「先生」・「多動の子どもたち」・「その他の子どもたち」いずれにも、
基本的に悪意が存在していないように思われるとしたら、いったい何が悪いのでしょうか?
やはり「多動の子どもたち」なのでしょうか?その親?先生?・・・

 いくぶん皮肉めいた言い方に聞こえるやもしれませんが、
障害はむしろこうした不幸な状況を生み出してしまう社会の側にあり、
適応すべきなのは、逆に社会の側ではなかろうか?などとさえ、私は考えることがあります。
これは、ことば遊びなどではなく、どこかで自分の意識が転倒させられてしまうことを
経験しているからなのです。
頭ではわかっているのだけれど、ついつい誰かを悪者にしたくなる気持ち。
冷静になれば、そんなことばや態度にはならないはずなのに、こじれていってしまうこと。
その原因を考えるとき、愚痴なのかもしれませんが、ふと思ってしまうのは、
「適応すべき価値を、この社会が備えているのか」ということなのです。
サバイバルは必要でしょう。
親御さんの、少しでも「人並み」(私自身はこのことばの使用にためらいを感じているのですが)
に近づきたいというお気持ちもお察しできます。
しかし、えてして現場の対応に追われているうちに、
この社会の余裕のなさや不寛容さに批判の目が向かわなくなるばかりか、
自分たちを責めがちになってしまうことのやるせなさを書いておきたいと思ったのです。

かなりヒートアップしてしまいました。ことばの勢いのあまり不適当な言い回しになってしまって
いたら申し訳ありません。お許しください。

森 茂雄

担 当

小学生 中学生 高校 浪人生 

教 科

全科目(高校の一部理系科目を除く)

自己紹介

子どもたちと接していて変わらず思い続けていることは、「みんな、ほどほど(適正)に自己を愛し、自尊感情をもって成長していってほしい」ということ。なかなかに「自分を信じて生きていく」ことは難しいことなのだから。

 

 

正信塾

電 話

052-782-1217

受付時間

10:00〜21:00

定休日・備考

月曜日

住 所

〒464-0034

愛知県名古屋市千種区清住町3-82 森ビル2F

交 通

名古屋市交通局東山線東山公園駅 徒歩3分

ページトップへ