<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<?xml-stylesheet type="text/css" href="rss.css"?>
<rss version="2.0">
  <channel>
    <title>個別指導学習塾・発達障害（PDD/LD/ADHD）学習指導・文章教室アルス</title>
    <link>http://jukutown.com/seishin-juku/</link>
    <copyright>正信塾</copyright>
    <description></description>
    <item>
      <title>忙中雑感</title>
      <link>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-12652/</link>
      <guid>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-12652/</guid>
      <description>この2週間ほど、忙しさに慣れていない私にとっては、多忙と感じる毎日が続きました。HPや日記の更新も疎かになってしまい、なんとなくもどかしい思いがありました。さて、中・高生は、期末テストのシーズンです。テスト対策の授業をするとき、ついついこちらの側が発してしまうのが「忙しげオーラ」だったり、「時間なさげオーラ」です。こういったオーラは、子どもたちにも伝染します。しかも勉強に苦手感のある子どもたちのほうが伝染しやすい。テスト前ほど、こちらはドーンと構えていたほうがよいのですが手順をはしょったり、説明がおおまかすぎてしまったりするため？の行列が結果的に増えてしまうことになりがちです。やはりあれこれ手をつけずに、効果的な教材に的を絞ってそれの習熟に力をつくすのが、ベターな選択であることが多いように思います。少しでも「できる感」を高めてテストに臨めるような授業をこころがけねばとあらためて思う今日このごろです。発達障害の子どもたちと接していると、なつかしさのようなものを感じるときがあります。彼らはどこか私たちの子どものころを思い出させる所があるのです。つまり彼らは私たちにとっての「（昔の）子どもらしい子ども」のオーラを発しているように感じられるのです。私たちの一方的な思い入れであることは承知しているのですがふとそういう感覚にとらわれてしまう。その感覚の由来について考えてみるときひとつ重要なファクターとして彼らのふるまいやことばに表れる共通の時間感覚が関係しているのではないかと思うのです。今の世の中に適応している子どもたちは、どこか私たちの子どものころより「忙しげ」です。文字通り毎日のスケジュールがいっぱいであるという意味で「忙しげ」であるだけでなく子どもがいつのときも時代に最もはやく適応できるという意味で私たちが生きている今の時代の時間感覚が何となく加速度的にスピードアップしているその「時代の生きた鏡」としての面からも「忙しげ」なのだと思います。世知辛い世の中を作ってきたのは、私たち大人であるはずなのですが多くの大人たちも、その忙しさにどこかでなじめていない。むしろ子どもたちのほうがそこらへんは先鋭的で、大人たちは、子どもたちのそういう面には「子どもらしさ」を感じにくくなっている、そんな気がするのです。ひるがえって発達障害の子どもたちの時間感覚は本人たちの涙ぐましい努力にもかかわらず、いつも同世代に対する乗り遅れ感があって彼らの不器用さもあいまって、はたから見ていると何だかとてもゆったりした時間を生きているかのように見えてしまう。それに実はその姿は、スピード感についていけない大人自身の似姿でもあろうし、そのゆったりした時間というのは郷愁という名の幻想に過ぎないのかもしれませんが私たちが子どものころに生きていた時間の流れを思い出させるものであるような気がするのです。むろん、こんな分析の当否にかかわらず、彼らはとても愛らしいしその存在によって私たち大人が癒されているところは確実にあります。「文明の解毒剤」などというと、おおげさですが彼らの魅力を積極的に評価する気持ちから何か述べてみたいと思い、あえて「こんな考え方はどうだろうか？」ということで書かせていただきました。</description>
      <pubDate>Wed, 23 Jun 2010 15:20:35 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>社会的適応の問題をどうとらえるか</title>
      <link>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-10979/</link>
      <guid>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-10979/</guid>
      <description>先回に引き続き、「発達障害」ということばの定義に関連したお話をさせていただきます。先回も引用しました杉山先生の『発達障害の子どもたち』では、「発達障害」は、次のように定義されています。「発達障害とは、子どもの発達の途上において、なんらかの理由により、発達の特定の領域に、社会的な適応上の問題を引き起こす可能性がある凹凸を生じたもの」（P45）先生のこの定義は、ご本全体を読み通すと、ひとつひとつの用語法に細心の注意が払われていることがわかるのですが、そのいちばんのポイントは「社会的適応」ではないでしょうか。むろん私たちは、多かれ少なかれ「社会的適応」において「個人差」を有しています。それは言い換えれば、社会生活を送る上での得手・不得手のようなものだと思いますが、特に不得手の許容範囲というのは、ボーダーラインをいちいち定義として書き出したらキリがないような気もしますし、「法律に違反しない程度」とか「当人の心理的忍耐の限界まで」とか、ラフな定義でもよいような気もします。杉山先生も述べられていることですが、問題は、子どもたち「本人の責任ではないことによって、つまり本人が怠けたり、わざと反抗したりしているのではなく、また親の躾の不備によるものでもなくて」（P46）社会生活に支障がおきていることなのだと思います。　たとえば多動の子どもたちによって学校の授業が成立しにくい状況があるとします。先生もがんばっていろいろ工夫されているようだが、なかなか状況は改善されない。この状況に登場する「先生」・「多動の子どもたち」・「その他の子どもたち」いずれにも、基本的に悪意が存在していないように思われるとしたら、いったい何が悪いのでしょうか？やはり「多動の子どもたち」なのでしょうか？その親？先生？･･･　いくぶん皮肉めいた言い方に聞こえるやもしれませんが、障害はむしろこうした不幸な状況を生み出してしまう社会の側にあり、適応すべきなのは、逆に社会の側ではなかろうか？などとさえ、私は考えることがあります。これは、ことば遊びなどではなく、どこかで自分の意識が転倒させられてしまうことを経験しているからなのです。頭ではわかっているのだけれど、ついつい誰かを悪者にしたくなる気持ち。冷静になれば、そんなことばや態度にはならないはずなのに、こじれていってしまうこと。その原因を考えるとき、愚痴なのかもしれませんが、ふと思ってしまうのは、「適応すべき価値を、この社会が備えているのか」ということなのです。サバイバルは必要でしょう。親御さんの、少しでも「人並み」（私自身はこのことばの使用にためらいを感じているのですが）に近づきたいというお気持ちもお察しできます。しかし、えてして現場の対応に追われているうちに、この社会の余裕のなさや不寛容さに批判の目が向かわなくなるばかりか、自分たちを責めがちになってしまうことのやるせなさを書いておきたいと思ったのです。かなりヒートアップしてしまいました。ことばの勢いのあまり不適当な言い回しになってしまっていたら申し訳ありません。お許しください。</description>
      <pubDate>Tue, 01 Jun 2010 13:17:41 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>「発達障害」ということばのニュアンス</title>
      <link>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-10703/</link>
      <guid>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-10703/</guid>
      <description>　「発達障害」ということばを使うとき、いつも心にひっかかりと鈍い痛みが残ります。「障害」ということばに感じる、どこか人間に烙印を押すかのような冷たい突き放したニュアンスが、どうしても気になってしまうのです。　「発達障害」は、英語で表せば、developmental disorderとなります。ここで問題となるのは、disorderと「障害」のニュアンスの隔たりです。　私が「発達障害」について考えるとき、よく読み直すのが、杉山登志郎著『発達障害の子どもたち』（講談社現代新書:2007）なのですが、この中で、杉山先生は、次のように述べられています。　「developmental disorderという英語の意味に沿えば、発達障害とは正しくは『発達の道筋の乱れ』、あるいは『発達の凹凸』という意味となる」（P43）。、　英語のdisorderのニュアンスが「障害」という語とくらべて的確なような気がするのは、私だけでしょうか？　杉山先生も、そのことは痛感されているようで、「障害」より「失調」のほうがまだましであろう、というコメントもなさっています。　たしかに、orderの訳語としてまず思い浮かべる「秩序」というのを、その子その子がそれぞれの暮らしている環境で、何とか折り合いがついている状態と考えるならば、その「調子を失っている」という「失調」は、「障害」よりもはるかに的確に、そのありようを表すことばであろうと思います。　また非学術的ではありますが、「スランプ」のイメージは、「ディスオーダー」よりは親しみやすいかな、と考えたことがあります。「不調」とか「不振」という意味あいなのですが、漢語の見た目や響きは、やはりいかめしいところもあるので、私は「ちょっと最近スランプ気味かな？」なんて使い方をしたことがあります。その方が、子どもたち本人には、心理的にアプローチしやすい気がしたからです。　ちょっと話が長くなってしまいました。この続きは、また次回にします。　</description>
      <pubDate>Thu, 13 May 2010 03:19:02 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>初回にあたって</title>
      <link>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-10453/</link>
      <guid>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-10453/</guid>
      <description>「講師の日記」として、どのようなことを書いていったらよいか、この連休中、なんとなく考えていました。子どもたちの学習について、日々の雑感をつづるということも、これから先にはあるとは思うのですが、やはりこのHPをごらんになる方は、「発達障害」の関連で検索されてきた方が多いだろうと考えました。そこで、自らの勉強もかねて（少し堅苦しいかもしれませんが）研究ノート的に「発達障害」に関する所感をまとめていきたいと思うにいたりました。最初のうちは、週1度の更新を目指したいと思います。考えのいたらないところもあろうかとは思いますが、ごらんになった方々のご指導・ご鞭撻をたまわれば幸いです。</description>
      <pubDate>Fri, 07 May 2010 15:09:19 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>講師の紹介</title>
      <link>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-10083/</link>
      <guid>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-10083/</guid>
      <description>正信塾は、塾長である私（森茂雄）の個人経営塾とお考えください。履歴は一部ですが「教室のご案内」で紹介しております。</description>
      <pubDate>Tue, 27 Apr 2010 20:37:51 +0900</pubDate>
    </item>
    <item>
      <title>ホームページを開設しました！</title>
      <link>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-9760/</link>
      <guid>http://jukutown.com/seishin-juku/blog-9760/</guid>
      <description>この度、新しいホームページを開設いたしました。講習のお知らせや講師の日記など、随時更新していきますので、ぜひご覧ください！</description>
      <pubDate>Wed, 21 Apr 2010 20:13:41 +0900</pubDate>
    </item>
  </channel>
</rss>
